ベルリンに住み始めてから、いつか連絡しなくてはと思っていた人がいる。その人は、壁が崩れる前後、昭和と平成の狭間でベルリンを訪れていた。好奇心旺盛なキラキラと光る目で、東ベルリンの街とそこに住む人たちの素朴で力強い魅力を、まだパスポートさえ持っていなかった高校生の私に語ってくれた。 その人とは、高校1年のクラス担任。教師という人種を毛嫌いしていた私は、初日からその担任に対しても、「騙されないぞ」という反骨心を丸出しにしていた。でも彼は、どういう訳か、そんな尖った10代の私を買い被った。「自分は平凡な人間だ」と常々思っていた私の背中を、ほんの時々、でもタイミングよく押してくれた。実力以上のことを試す勇気をもらった。いつか、海の向こうへ行きいたいという夢が、もしかしたら実現できるかもしれないと思い始めたのもこの頃だったと思う。日本を飛び出した今の自分があるのは、ある意味、この先生との出会いがあったからだと言える。繰り返すけれど、私は教師という人種がお世辞にも好きではない。でも、この先生は「恩師」だと呼べる。そして、多感な時期に出会い、影響を与えてくれた大人の一人だ。 私にとってこんなに重要な人なのに、なかなか書けなかった手紙は、ようやく数年前に下書きが済んだものの、そこから少なくとも5年間は、机の隅で他の書類に埋もれながら清書される日を待っていた。不幸中の幸いか、コロナがもたらしたたくさんの時間に後押しされて、今年ようやくポストに投函された。高校の名簿にある住所を頼りに、無事届くことを祈って…。 Since I started living in Berlin, I have had a person in mind, whom I though I should write a letter to. This person had visited Berlin before and after the fall of the wall. With his wide eyes of curiosity, he […]
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泳ぐということ
「ここまで、おいで」。その言葉に従って、2-3mほどの距離をバタ足ですすむ。「ここ」が目の前になった時、「ここ」は一歩遠のいた。戸惑ったけれど、もう一漕ぎ。でも「ここ」はまた一歩遠のく。これが数回繰り返されたあとパニックになって、半ば溺れたようになって水を飲んだ。 私は泳ぎが得意じゃない。泳げなくはないのだけれど、足がつかないところには怖くて入れない。その理由をたぐり寄せると、多分、この「ここまで、おいで」と父親に言われた、市民プールの記憶が呼び戻される。小学生の私は「ここまで」には、どこまでいってもたどり着けなかった。この経験が体の奥に刻まれているようで、だから今でも足のつかないところで泳ぐのが苦手だ。 イルカみたいに水の中を楽しく泳ぎ回る娘たちをみていると、今年こそはスクールに通おうかという気持ちが体の奥の方でポカポカしてくる。あ、でも夏は終わってしまったから、また来年か。 “Here. Swim this far.” Following the cue, I “moved forward” by doing flatter kicks. When I almost reached “this far,” it moved one step further away from me. Being confused, I gave one more kick. Then again, “this far” moved away. After […]
親の心、子の心
子どもの自我が芽生えた頃、誕生の瞬間から自分の分身だと思い込んでいた小さな存在が、実は自分とは全く別個の人間なのだという事実を突きつけられた。それから10年余りがたち、その子は15歳になった。 初めて親になってから十数年間、たくさんの刺激的な「初めての瞬間」を一緒に体験させてもらった。そして今、初めての思春期を(再)体験中。思春期というと、渦中の10代が主役とされがち。でも、実は意外と、親の方が大きな役を与えられているのかなと感じる。そう、裏の主役。10代の子を持つ親が、子を自由に解き放ってあげること。この思春期の物語の隙間にある「スピンオフ」をしっかり綴ることが案外重要なのかもと、最近思う。 アラフィフ坂から見下ろす10代の海原はキラキラと眩しい。ところどころに見える荒波や渦潮だって、冒険の予感にワクワクする。一緒に漕ぎ出したい気持ちを抑え、この陸の上から見守ることがスピンオフのストーリーラインだ。ってことは、かなり地味な内容になりそうなスピンオフだけど、親世代限定公開ってことで。 When my first child started to develop her own identity at the age of 2-3 years old, I had to accept the fact that the child, whom I was believing as my alter ego since her birth, was an individual person with […]
フェアウェル
化粧台、香水、眼鏡、ヘアブラシ。もう帰ってこない主人に、待ちぼうけを食らわされているとも知らず、佇むモノたち。時間は、そのモノの周りでだけ止まっているようにもみえた。大好きだった祖母が亡くなったあと、彼女の部屋へ入った時のことだ。 人ってこんなに突然に、そして完全に消えてしまえるのか。近い人がなくなるということを初めて経験した20歳そこらの私は茫然とした。「神隠し」という言葉は知っていたけれど、まさに神様が突然連れて行ってしまったようだなと思った。 私が去る日もいつかやってくる。私のモノたちは、どんな表情で主人の不在を受け止めるだろう?あれもこれも取っておいて捨てられない主人がいなくなり、お役目が解けてほっとするかもしれない。 There were her perfumes, her hair brushes and her glasses on her dressing table. They looked like standing still and waiting patiently to be used by her, without knowing she will never come back again. Time around her things looked as if […]
病院の時計
病院はできればお世話になりたくない場所の一つだけれど、その建築やデザインの美学は好きだ。 特に昭和の香りがする日本の病院は、デザイン美術館にでも来たような錯覚さえ覚える。手すりやドアノブ、エレベーター、館内放送用のスピーカーなど、高度成長期の最先端の優れたモノたちを目撃することができるから。この壁時計も例に漏れず、数字のデザインや秒針の尖り具合なんか、たまらなく素敵にデザインされている。 日本は、色々な理由で古いものが新しいものへと置き換えられることが多い。そのスピードも案外速く、1年、2年ぶりの帰国は、様変わりした街の顔を受け入れる作業から始まると言ってもいい。今度帰国できるのはいつのことか。プールに行く途中の小道にある、小さな和菓子屋さんに立ち寄れる日がくることを祈りつつ。 A hospital is one of the places where you don’t want to visit so often, but I like the aesthetics of its architecture and the design. I especially like the one with the Showa Era’s atmosphere of the sophisticated design which I […]
little intruders
中学生の時、校長室に呼び出されたことがあった。ベルリンの夜道を歩く中で、暗がりに浮かぶ校舎を見つけ、一瞬のうちにタイムトリップ。 放課後に女子クラスメートと3人で、好きな先輩の教室へ忍び込み、何か所持品を拝借しようという計画を立てた。侵入したはいいが、先輩の机には「置き筆箱」しか見つからず、落胆しながら悩んだ挙句に手にしたのは消しゴム。正直、先輩のものだという証拠は何もない。「取れ高」はかなり低い。 渋々と帰ろうとしたところ、廊下から足音が聞こえた。元来、小心者なので、慌てて隠れようとして激しく机にぶつかった。「誰だっ!」と、足音の主が叫び、お縄頂戴。驚くことに、その主は校長だった。「君らはここで何をしているんだ」と、私たちに問うた時の、驚きと安堵が入り混じった顔は今でも忘れない。「小娘3人でよかった」と。 翌日、ドラマのような展開で、校長室からお声がかかった。3人とも案外真面目な生徒だったので、クラスの視線はかなり熱かった。「何をやらかしたんだ?」と。結局、校長にやんわりと怒られたというお粗末なオチしかないけれど、少し笑える私の武勇伝。 I was called into the principal’s office when I was in junior high. When this school building emerged in the dark while walking down the street in the night, I got a memory flashback. Two girl friends and I had a […]
german christmas
ドイツのクリスマスは日本のお正月のような位置づけで、家族で集い祝う。だから、12月になると「いつ帰る?」が頻出ワードになり、ドイツはソワソワと帰省モードになる。これに平行して、ベルリンのような首都には、いろんな事情から実家に帰れない人、つまり私のような外国人や、休暇を楽しむツーリストだけが残される。だから、こういう人種は大晦日までほぼ毎晩のように、開催場所を変えながら「クリスマスパーティー」に呼んだり呼ばれたりして、食い倒れ、飲み倒れのデカダントな日々を過ごす。子供が生まれる前の私も、もれなく「こういう人種」だった。 今年は世界中がコロナに包まれ、というかコロナのうねりに飲み込まれた1年だった。ある意味、SF映画を見ているような「非現実」であるはずの光景をたくさん目にした。来年の今、私はどこにいるだろう。ベルリンで大勢の観光客を嬉しそうに眺めながら、日本への正月帰国の荷造りをしているかもしれない。「非現実」を乗り越えて、すがすがしい気持ちで。 In Germany, Christmas is a family event like New Year in Japan. So, when December starts “when are you going home?” becomes one of the most common phrases, and the Christmas mood makes most people restless because there are so many things to […]
Viel Glück
Good luck を意味するドイツ語。Viel glück (たくさんのラッキーを)!これと似た言葉に、viel spass(たくさんの楽しさを = have fun)や vielen dank(たくさんのありがとう = thank you)なんかがある。 日本語と比べると、ドイツ語というのは驚くほど直球で飾りのない言語だと思う。時として(人によってはかなり頻繁に)、ぶっきらぼうに聞こえるその語感を、私はいつもマイナスの特徴と捉えている。でも、この言葉には、直球さゆえに懐にストンと入ってくる、「不器用な昭和の親父」みたいな素朴な良さを感じる。相当個人的な感覚かもしれないが。 語感のうんちくはさておいても、このマスキングテープをニヤニヤして張った人、このマスキングテープをニヤニヤして見た人。いつも歩いている普通の道なのに、私までニヤニヤ。飾りのないシンプルなドイツのメッセージ・オン・ザ・ストリート。 Viel Glück, viel spass and vielen dank. When they are translated literally, it will be “a lot of luck”, “a lot of fun” and “many thanks”. Sometimes, I have […]